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9月, 2017の投稿を表示しています

“影響力の武器――なぜ、人は動かされるのか(著・Cialdini,Robert B)”とクラウドファンディング

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初めは「クラウドファンディング徒然草」というタイトルだけ考えて、後は自分で何とか書いてみよう、と思い立った。何にも考えていなかったので、「考えていない」という状態で書き続けている。が、もう思い付いたのでタイトルを変更、クラウドファンディングに纏わる幾つかのTipsを、ここに。 何故、クラウドファンディングでなければならないのか? 「クラウドファンディングじゃなきゃ寄附あつめなんてできない」という訳じゃないのに、じゃあ何故やろうとするのか。という疑問。まずは、クラウドファンディングの仕組みと特長を因数分解してみることにした。 クラウドファンディングと影響力の武器 “影響力の武器――なぜ、人は動かされるのか(著・Cialdini,Robert B)”という書籍がある。これを下地に、先述の事項は考えてみた。こうして全体像を踏まえ、自分の現状を見つめ直すと良い。問うべきは、下記のとおり。 これらの事項を実現することが目標達成のために必要(Must/Nice to Have)かどうか? 他の手段で実現できないかどうか?その時、何を犠牲にすることになり、何がより良いものとなるか? クラウドファンディングの中で、どのサービスを採用すべきか? 一点目は、そもそもの問い掛け。Mustなのか、Nice to Haveなのか、という視点で色分けしてみるとより解像度が上がると思われる。 二点目は、いつも自分でも考えることがある。「クラウドファンディングでなければこれは無理」という事項は幾つか思い浮かぶのだが、それらがMustなのかどうか、というのは悩ましい。「あればあったで、嬉しいんだけど…」という気持ちも残る。 自前の手法を駆使すれば、たとえばリアルタイムに反映される達成率は多少のタイムラグがあったとしても実現できるし、他の事項についても努力次第で既存のクラウドファンディングのサービス以上のものを実現できる可能性があるかもしれない。 ただし、”各種サービスの既存ユーザーに情報発信できる”ことと、”クレジットカード、銀行振り込みなどの寄附経路の豊富さ・寄附のしやすさ”という二点については、自前でどんな手法を使ったとしても敵わないポイントになってしまうかもしれない。幾らか先行投資をしてシステムを整備している団体・組織であれば話は違ってくる

クラウドファディング成功のための連立方程式

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今回の企画 を通して気付いた、現時点での自分の学びを記しておく。それは今後の自分のためであり、これからクラウドファンディングをする人たちにとっては”ひとつの予習”になると思う。無論、これはn=1の経験であって、もっと有意義なことを知る人は自分以外にもいるだろうから、その前提で。 なお、連立方程式、というものは、奥が深い。ひとつひとつの立式が正しくとも、その事象全体を俯瞰してもっとも正しいとされる数値が入らないと成功しない――というところに、“連立方程式”というフレーズの意味がある。「リソースが潤沢で何でもできます」というPJTはこの世に存在しないため、投資対効果をいかに追求できるか、というポイントをどれだけ考え抜けるかが勝負。 また、プロジェクトの開始時までと開始後で、施策の優先順位は変わっていくこともある。短い期間内で何度の効果検証ができるか、それをどこまでフィードバックとして活かせるか、というのも大切なポイントだと自分は思っている。 クラウドファンディングの“Why”を定義する 事業目標の確認の上で、どんなGAPがto be像と現状との間にあるのかを描く。そして、GAPの中の問題・課題を洗い出し、クラウドファンディングで解決したい問題を設定する。数ある問題・課題の総てをクラウドファンディンで解決できるわけではない(無論、そうある企画であればそれに越したことはない)ため、どの部分をクラウドファンディングに賭けるのか、という議論があるべきだ。 既存の無菌室すら、整備のままならない現状 自分のときのケースでは、事業推進のためには新しい無菌室の存在は不可欠であり、患者の数は右肩上がりで増えていた。無菌室を必要とするのは小児がんの患者さんだけではなく、最近は骨髄不全・免疫不全などの難病のこどもたちも含まれる。様々な疾患について治療法が確立されるに伴い、無菌室のニーズは拡大してきていた。 では、どのように無菌室をより良くしていけるか、となる。ヒト・モノ・カネ――こうした資源の中で、ヒトの面では一定水準にあるものの(しかし、これも社会的意義や寄附労働仮説に依存したところがあるため、人的資源は永続的なものではないように思う)、カネという点では見劣りするのが、ずっと小児医療全体の課題としてある。 一般的な総合病院・大学病院と比

深く、長く、続くものを。そして、世の中に広がるものを。

自分で書いたフレーズに、はっとした。というか、させられた。「それって、でもどういうこと?」という気にさせられたのだ。 たぶん、書き出してみて「こりゃ纏まらん」と思ったので、恐らく公開されるタイミングでは完全に殴り書きだが、後で読み返す用ということで。 深く続くものとは? 言い換えると、切実なもの。それは、真理に近しいものではないだろうか。 ”同じ時代に存在する”という絆 助け合い、同じ何かを目指した記憶 自らの/大切な人の危機(救命など)を通して経験したこと、ひと、とき かけがえのない瞬間(「一度きりで終わってしまう」と思わせるような稀少性) 「自分は生きる価値のある人間だ」と思わせられた原体験(自己肯定感、自己効力感) 「自分は、なりたい自分になれる人間だ」と思わせられた原体験(自己実現) 書いてみて、「自分も、そうだなあ」と思う。こういうものを想起させられたり、思い出させたり、そこから今現在に続く人生に何らかの意味付けを考えさせるようなアイデアは、とどけた誰かに”深く”とどくのだ。 長く続くものとは? 下記のとおり。思い付きを、ただ記す。 定期的に起こる出来事 自動的に実現する(してしまう) リソースの調達が苦にならない たのしい、おいしい、うれしい 参加するときの敷居が低く、連帯感を感じることができる どっかで、誰かが、こんなことお話されていたなぁ…でも、こんな詞だっけ…?というのも含まれる。 世の中に広がるものとは? ここにはAIDMAだったり、SIPSのようなものだったりのフレームワークが出てくると思うのだが、ここも考えてみる。 共感される 関係者がたくさん(若しくは、どんどん増える) 社会的な信頼 関わること自体が、自己表現につながる ブランド、憧れ・羨望 今日は、ここまで。書きながら、イメージが湧いてきた。それは地域の『お神輿』。お祭りって、近い。あとは、何かのフェスとか、コミケとか。そういうところに、ヒントが有るのかもしれない。

小人数であっても、尖ったことをしていたい

さいきん飲んだ時に出たフレーズ。僕が話した訳じゃないけど、あぁ、ほんとうにそうだなぁ、と思ったのだ。 尖ったこと、というのは、いろんな定義付けがなされると思う。そこには、きっと”シンプルな戦略(著・山梨広一)”に記されたような戦略があるはずだ。 世の中、聴こえや耳触りの良い話は数あれど。それがごく小さな市場を対象にしたものでスケールしなかったり(市場選択での誤算)、差別化が出来ておらず既存ケースの縮小版のような成果しか出せなかったり(ポジショニングでの誤算)、事業化できるだけのリターン――それは経済的なものであっても、精神的な/従業員の内的な動機付けに資するものであっても良いと思う――が小さかったり(ビジネスシステム設計での誤算)・・・という、様々に存在する落とし穴にある戦略に陥ってしまうと、何も続かない。 戦略とは、こうした構成要素の掛け算で成り立つものであり、ビジネスを描くキャンバスには、常に余白が有る。 じゃあ、何もできない、続かない。そんなことばかりかというと、実際何らかの問題を抱えつつも継続している事業は、この世の中にたくさん存在する。その一方で、どんなに大きな予算が付いても、どんなに大勢の人があつまっても、誰にも知られずに、憶えられずに終わっていく事業もたくさん存在する。 人は、描いたビジョンの歯車でしかないのだが、そのビジョンを描くのも、人。尖った思想というものをビジョンにできるところに、人材やお金が集まるのだと思う。 ”シンプルな戦略: 戦い方のレベルを上げる実践アプローチ”で書かれた、良い戦略の条件は3Cの視点で語られた。 顧客にとってうれしいことかどうか? それは他の会社と違うのか? 自社は儲かるのか? 小さくとも、尖ったことを。尖った部分が選んだ市場にあるのか、独自性にあるのか、リターン調達のシステムにあるのか、そのどれもなのか――もっと、未来志向の発想が欲しい。自分には、そのための想像力が足りない。 深く、長く、続くものを。そして、世の中に広がるものを。

Mr.Children”himawari”PVを”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(著・村上春樹)”で紐解く

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PVの時間軸は複雑に絡み合い、空間は現実の世界と想像の世界を行き来する 僕の解釈としては、第一に PVの時間軸はチグハグにシャッフルされたものであろう、という こと。そして、 『主人公が、入院している彼女をお見舞いに来る』という現実の世界を除いては、総てが想像の世界(深層心理の世界、と言い換えてもいいかもしれない)であろう ということだ。 彼女が亡くなってしまう瞬間を表現するメタファ こと切れる彼女の姿に、主人公が持っていたコーヒーカップを落とした瞬間――その前から不穏な情景だった街の中から嵐がやってきて、他にも患者がいたはずの医療施設の入院病棟から、主人公だけが吹き飛ばされる。 窓を突き破り外へ放り出されてしまう主人公を、倒れた彼女が引きとめようと腕から蔦のようなものを出して繋ぎとめるものの、千切れて主人公はその世界の奥底まで突き落とされてしまう。 コーヒーカップを落として割れてしまうシーンは、じつはPV開始直後にも訪れる。割れた後には植物が生まれ、世界を覆い尽くそうとする。その後続くお見舞いのシーンには全く繋がりを感ぜられず、ただ現実的な情景が続く。このギャップには違和感があった。 ここで考えられるのは、主人公の見ている世界は現実の世界と想像の世界/深層心理の世界を行き来していて、そのほとんどが想像の世界を描いた動画作品であるということだ。想像の世界に生きる主人公――この設定に、どこかで見おぼえがあった。 村上春樹が僕の生まれた年に書いた、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”という作品が、それだ。 ”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”との類似点 先述の通り、”himawari”のPVの時間軸がシャッフルされたものであるのと同様、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”の時間軸もシャッフルされている。 ただし、そのシャッフルのされ方が全然違っていて、”himawari”は(恐らく)歌われる詩とことばの響きに合わせて時間軸を移動するのに対し、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”は「ハードボイルド・ワンダーランド」の話の続きが「世界の終り」であるという構成になっている(しかし、章立ての構成自体は交互にお話が語られるため、読者は最後まで読まないとそれぞれのお話の時間軸がつかめない)。