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人として

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「人間的」とは何かな? 答えの数が 世の中の形.――と詩に綴ったのは、YOSHII LOVINSONだったろうか。ここで、遅ればせながら今年の抱負を述べる。 僕は、就職活動の最中で、ある結論めいた自分なりの考えに達したことがある。塾講師のバイトの経験や、人に教えるということの面白さ、学術研究論文の面白さ(実験は下手だった)をきっかけとして「人の話を聴いて、考えて、話すことそれ自体を仕事にしたい」 という考えだ。 今思えば、大概の事務仕事や知的労働がそれにあたるので、べつに就職先はコンサルティングファームでなくとも良かったじゃないか、と言われれば、まァそれまでだ。 けれど、 コンサル外銀特有の“あの”ブランディングに魅入られ、「(仕事内容を見て)これは自分に合った仕事かも…」「(選考で合う学生を見て)みんな優秀っぽいなぁ…」「経営コンサル、SIerコンサルのどちらも市場が先細りし出しているらしい…」という(2012年当時のまことしやかな)情報から「まだ成熟していないコンサルティング市場とは何だろう?それに飛び込むべきなんじゃないか?」という問いを立てて「Webマーケティング/デジタルマーケティングをテーマにした戦略コンサルティングなら、まだ少数派だし、若年層の自分でもチャンスが比較的多そうだし、今後ビジネスで必要とされる人材ではないだろうか?」という仮説を導き出したのだった (ただし、この仮説が当たったかは、定かではない) 。  考えるということ、そのものは、新卒2年目ぐらいまで全然できなかった。恩師のお陰で、今の自分がある。無論、まだまだ自分は、と思う。けれど、それすらなかったら、と思うと、ゾッとする。 それでも、何とかやってきたつもりだったが、去年ついに自滅した。こころない詞で、人を傷付けた。何の言い訳のできないぐらい、様々なところで迷惑を掛けてしまった。 人として、生きるということ。いろんな人が、誰かのことを「人としてさ、」と指を差す。差された方は、真摯に受け止めよう。しかし、それだけではない。何とかしなければ、そう思うことは、あるべきだ。自分に期するところがある限りは。 何の意義を求めてのことか、はっきりとした背景を理解している訳ではないが――僕の地元の小学校・中学校では、毎年ある期間限定で盲学校の子と共に授業を