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葬送(著:平野 啓一郎)

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平野啓一郎の文章は、とても叙情的だと思う。それはまるで、人の感情で織り上げたつづれ織りのようなものだ。繊細で心優しいショパンと、自身のコンプレックスに思い悩むドラクロワ。彼らの関係は、まるで互いが互いの光と影のように、時に陰影を逆さにする。 『日蝕』(処女作にして芥川賞受賞作)、『一月物語』に次ぐ“ロマンティック三部作”の最終作であるこの『葬送』は、その表題の通りのシーンで幕を開ける。ピアニストのショパンが結核で39歳の生涯を閉じるまでを、親友である画家のドラクロワとの友情を縦糸に編み上げた歴史小説だ。 どのシーンも、僕の気持ちに迫る何某かを齎した。誰が何と言っても、クライマックスは第二部の冒頭。ショパンの最後のリサイタルの描写ほど美しい文章を、僕は読んだことがない。まるで、時空を超えてそのピアノの奏でる感動を体験しているかのような錯覚をも想い起こさせる。眸に涙を溜めて、しかしそんなひとときが去ってしまうのを惜しみながら読んだ。  因みに、この作品を書き上げた時。作者は僕と同い年だったそうだ。「そうなのかー」と思う。

わたしを離さないで(著:カズオ・イシグロ)

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読後感は、不思議なものだった。評判で、泣ける、という声を聴いた。僕は、全然涙をもよおさなかった。衝撃を受ける、という声を聴いた。僕は、そのストーリー設定にも展開にも(結末にすら)共感することが無かった。 それでも物語の中に登場する“Never Let Me Go”、“Lost Corner”という記号が、読み深めていくにつれて魅せる色彩を幾重にも姿かえてゆく様は、深々とこころに残った。 たとえばそれは、詩の詞としての 「わたしを離さないで」であり、 友人たちに向けられた「わたしを離さないで」であり、時と共に変わりゆく新たな価値観と古い倫理観に向けられた 「わたしを離さないで」であり、 自分たちの「親(ポシブル)」 への「わたしを離さないで」であるのだと。 彼らの「忘れもの」とは、各々がそれぞれの青春と生きがいを感ぜられていただろうヘールシャムでの一瞬々々だったのではないだろうか。そして、大人になるにつれて置き忘れていった「忘れもの置き場」は、永遠にこの世にはない幻の場所であるかのように消え失せてしまうのだ。 最終的に、主人公たちには“逃げる”という選択肢を取ることはなかった。いや、そもそも“逃げる”ことを選んだ先のその未来を想像することすら、無かったのだろうと思う。それは、人間とはそもそも・・・というぐらい、普通のことなのではないだろうか。各々が、それぞれの人生の『普通』の中で生き、死んでいく。その運命を受容した者たちだからこその在り方だったのだと。僕は、思う。 この本を読み終えた日の午後、国内で4例目の6歳未満の脳死ドナーについて臓器移植手術が為されるとのニュースが流れた。まだ幼い我が子を脳死で亡くし、目の前で動き続ける心臓とたしかな体温を認めながら、誰かのために我が子の身体の一部を渡すという決断をされたご両親に思いをはせる。人が人を想う気持ち、自分たちだけの小さな想い出、そこにあったはずの未来。 私たちのこの選択が、誰かの希望になり、そして誰かの幸せの妨げにならないよう、また私たちの決断をどうか静かに受け入れていただけるよう、願う次第です。 尊いのは、命そのものだけではないのだと、信じている。

La La Land (監督:デイミアン・チャゼル)

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ある文章を編集する機会の中でこの作品の話が出たこと、久しぶりの連休らしい連休に時間を取ることにしたので、見たいな、と思うこの作品を見た。 「人生って、こういうファンタジーが有って良いよな」という気分になった。 ハッピーエンドに向かっていくだろう物語の中で、大人になっていく主人公たちの道のりの中にある情景が、ずっと描かれる。ひとりひとりの登場人物にあるべき背景や思想の様なものを丁寧に描いているというよりは、大まかにプロットされたストーリーの中で、困難・クライマックスの瞬間にミュージカルの魔法が掛かる…ということの繰り返し。なので、抒情的な表現は少なく、展開は大雑把な紙芝居のよう。人物の内面が露わになることはさほどなく、何となくの情動の流れを視聴者として補填しているような気さえした。 で、自分も良く聴く菊地成孔さんや映画評論に長けた方々の評価も聴いてはいた。じっさいに見てみて正直、自分のレベルでも、ジャズ、というものを都合良く捉え過ぎている気がした。 この映画のテーマ曲だろう、Mia & Sebastian’s Themeは「映画音楽っぽいな」と思った。この一曲が都度流れる時、曲自体が物語の預言者的役割をして、二人を導いてゆく。この演出には、しびれた。ただし、これは全然ジャズじゃない(ジャズ、というか…曲想はショパンみたいだった)。 また、“死んでいくジャズ”をセブが救出したいと語ったジャズ。これが何かというと、車でも家でも執拗に練習しているセロニアス・モンクの Japanese Folk Songだったりする。お気に入りのジャズクラブ Lighthouse Cafe でミアに聴かせる音楽は、ソロ回しを中心とした音楽で、これはスウィングに近しい。 ジャズといっても時代背景と伝わっただろうメッセージとには、大きな差がある。もちょっと、気を遣って欲しかったな、と思うのだけれど。 ただ、最初に流れるAnother Day Of Sunの素晴らしいこと。僕は、このテーマが一気に気に入って、即Google Playでサウンドトラックを購入した。ジャズとか関係なく、映画音楽としてBGMとして、すんごく良い。作曲の構成としても、そして演奏するプレイヤーの技術のレベルの現れ方も十分に有って。こういう曲に、こうした映像作品を通じて出遭えたことに大

“影響力の武器――なぜ、人は動かされるのか(著・Cialdini,Robert B)”とクラウドファンディング

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初めは「クラウドファンディング徒然草」というタイトルだけ考えて、後は自分で何とか書いてみよう、と思い立った。何にも考えていなかったので、「考えていない」という状態で書き続けている。が、もう思い付いたのでタイトルを変更、クラウドファンディングに纏わる幾つかのTipsを、ここに。 何故、クラウドファンディングでなければならないのか? 「クラウドファンディングじゃなきゃ寄附あつめなんてできない」という訳じゃないのに、じゃあ何故やろうとするのか。という疑問。まずは、クラウドファンディングの仕組みと特長を因数分解してみることにした。 クラウドファンディングと影響力の武器 “影響力の武器――なぜ、人は動かされるのか(著・Cialdini,Robert B)”という書籍がある。これを下地に、先述の事項は考えてみた。こうして全体像を踏まえ、自分の現状を見つめ直すと良い。問うべきは、下記のとおり。 これらの事項を実現することが目標達成のために必要(Must/Nice to Have)かどうか? 他の手段で実現できないかどうか?その時、何を犠牲にすることになり、何がより良いものとなるか? クラウドファンディングの中で、どのサービスを採用すべきか? 一点目は、そもそもの問い掛け。Mustなのか、Nice to Haveなのか、という視点で色分けしてみるとより解像度が上がると思われる。 二点目は、いつも自分でも考えることがある。「クラウドファンディングでなければこれは無理」という事項は幾つか思い浮かぶのだが、それらがMustなのかどうか、というのは悩ましい。「あればあったで、嬉しいんだけど…」という気持ちも残る。 自前の手法を駆使すれば、たとえばリアルタイムに反映される達成率は多少のタイムラグがあったとしても実現できるし、他の事項についても努力次第で既存のクラウドファンディングのサービス以上のものを実現できる可能性があるかもしれない。 ただし、”各種サービスの既存ユーザーに情報発信できる”ことと、”クレジットカード、銀行振り込みなどの寄附経路の豊富さ・寄附のしやすさ”という二点については、自前でどんな手法を使ったとしても敵わないポイントになってしまうかもしれない。幾らか先行投資をしてシステムを整備している団体・組織であれば話は違ってくる

クラウドファディング成功のための連立方程式

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今回の企画 を通して気付いた、現時点での自分の学びを記しておく。それは今後の自分のためであり、これからクラウドファンディングをする人たちにとっては”ひとつの予習”になると思う。無論、これはn=1の経験であって、もっと有意義なことを知る人は自分以外にもいるだろうから、その前提で。 なお、連立方程式、というものは、奥が深い。ひとつひとつの立式が正しくとも、その事象全体を俯瞰してもっとも正しいとされる数値が入らないと成功しない――というところに、“連立方程式”というフレーズの意味がある。「リソースが潤沢で何でもできます」というPJTはこの世に存在しないため、投資対効果をいかに追求できるか、というポイントをどれだけ考え抜けるかが勝負。 また、プロジェクトの開始時までと開始後で、施策の優先順位は変わっていくこともある。短い期間内で何度の効果検証ができるか、それをどこまでフィードバックとして活かせるか、というのも大切なポイントだと自分は思っている。 クラウドファンディングの“Why”を定義する 事業目標の確認の上で、どんなGAPがto be像と現状との間にあるのかを描く。そして、GAPの中の問題・課題を洗い出し、クラウドファンディングで解決したい問題を設定する。数ある問題・課題の総てをクラウドファンディンで解決できるわけではない(無論、そうある企画であればそれに越したことはない)ため、どの部分をクラウドファンディングに賭けるのか、という議論があるべきだ。 既存の無菌室すら、整備のままならない現状 自分のときのケースでは、事業推進のためには新しい無菌室の存在は不可欠であり、患者の数は右肩上がりで増えていた。無菌室を必要とするのは小児がんの患者さんだけではなく、最近は骨髄不全・免疫不全などの難病のこどもたちも含まれる。様々な疾患について治療法が確立されるに伴い、無菌室のニーズは拡大してきていた。 では、どのように無菌室をより良くしていけるか、となる。ヒト・モノ・カネ――こうした資源の中で、ヒトの面では一定水準にあるものの(しかし、これも社会的意義や寄附労働仮説に依存したところがあるため、人的資源は永続的なものではないように思う)、カネという点では見劣りするのが、ずっと小児医療全体の課題としてある。 一般的な総合病院・大学病院と比

深く、長く、続くものを。そして、世の中に広がるものを。

自分で書いたフレーズに、はっとした。というか、させられた。「それって、でもどういうこと?」という気にさせられたのだ。 たぶん、書き出してみて「こりゃ纏まらん」と思ったので、恐らく公開されるタイミングでは完全に殴り書きだが、後で読み返す用ということで。 深く続くものとは? 言い換えると、切実なもの。それは、真理に近しいものではないだろうか。 ”同じ時代に存在する”という絆 助け合い、同じ何かを目指した記憶 自らの/大切な人の危機(救命など)を通して経験したこと、ひと、とき かけがえのない瞬間(「一度きりで終わってしまう」と思わせるような稀少性) 「自分は生きる価値のある人間だ」と思わせられた原体験(自己肯定感、自己効力感) 「自分は、なりたい自分になれる人間だ」と思わせられた原体験(自己実現) 書いてみて、「自分も、そうだなあ」と思う。こういうものを想起させられたり、思い出させたり、そこから今現在に続く人生に何らかの意味付けを考えさせるようなアイデアは、とどけた誰かに”深く”とどくのだ。 長く続くものとは? 下記のとおり。思い付きを、ただ記す。 定期的に起こる出来事 自動的に実現する(してしまう) リソースの調達が苦にならない たのしい、おいしい、うれしい 参加するときの敷居が低く、連帯感を感じることができる どっかで、誰かが、こんなことお話されていたなぁ…でも、こんな詞だっけ…?というのも含まれる。 世の中に広がるものとは? ここにはAIDMAだったり、SIPSのようなものだったりのフレームワークが出てくると思うのだが、ここも考えてみる。 共感される 関係者がたくさん(若しくは、どんどん増える) 社会的な信頼 関わること自体が、自己表現につながる ブランド、憧れ・羨望 今日は、ここまで。書きながら、イメージが湧いてきた。それは地域の『お神輿』。お祭りって、近い。あとは、何かのフェスとか、コミケとか。そういうところに、ヒントが有るのかもしれない。

小人数であっても、尖ったことをしていたい

さいきん飲んだ時に出たフレーズ。僕が話した訳じゃないけど、あぁ、ほんとうにそうだなぁ、と思ったのだ。 尖ったこと、というのは、いろんな定義付けがなされると思う。そこには、きっと”シンプルな戦略(著・山梨広一)”に記されたような戦略があるはずだ。 世の中、聴こえや耳触りの良い話は数あれど。それがごく小さな市場を対象にしたものでスケールしなかったり(市場選択での誤算)、差別化が出来ておらず既存ケースの縮小版のような成果しか出せなかったり(ポジショニングでの誤算)、事業化できるだけのリターン――それは経済的なものであっても、精神的な/従業員の内的な動機付けに資するものであっても良いと思う――が小さかったり(ビジネスシステム設計での誤算)・・・という、様々に存在する落とし穴にある戦略に陥ってしまうと、何も続かない。 戦略とは、こうした構成要素の掛け算で成り立つものであり、ビジネスを描くキャンバスには、常に余白が有る。 じゃあ、何もできない、続かない。そんなことばかりかというと、実際何らかの問題を抱えつつも継続している事業は、この世の中にたくさん存在する。その一方で、どんなに大きな予算が付いても、どんなに大勢の人があつまっても、誰にも知られずに、憶えられずに終わっていく事業もたくさん存在する。 人は、描いたビジョンの歯車でしかないのだが、そのビジョンを描くのも、人。尖った思想というものをビジョンにできるところに、人材やお金が集まるのだと思う。 ”シンプルな戦略: 戦い方のレベルを上げる実践アプローチ”で書かれた、良い戦略の条件は3Cの視点で語られた。 顧客にとってうれしいことかどうか? それは他の会社と違うのか? 自社は儲かるのか? 小さくとも、尖ったことを。尖った部分が選んだ市場にあるのか、独自性にあるのか、リターン調達のシステムにあるのか、そのどれもなのか――もっと、未来志向の発想が欲しい。自分には、そのための想像力が足りない。 深く、長く、続くものを。そして、世の中に広がるものを。

Mr.Children”himawari”PVを”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(著・村上春樹)”で紐解く

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PVの時間軸は複雑に絡み合い、空間は現実の世界と想像の世界を行き来する 僕の解釈としては、第一に PVの時間軸はチグハグにシャッフルされたものであろう、という こと。そして、 『主人公が、入院している彼女をお見舞いに来る』という現実の世界を除いては、総てが想像の世界(深層心理の世界、と言い換えてもいいかもしれない)であろう ということだ。 彼女が亡くなってしまう瞬間を表現するメタファ こと切れる彼女の姿に、主人公が持っていたコーヒーカップを落とした瞬間――その前から不穏な情景だった街の中から嵐がやってきて、他にも患者がいたはずの医療施設の入院病棟から、主人公だけが吹き飛ばされる。 窓を突き破り外へ放り出されてしまう主人公を、倒れた彼女が引きとめようと腕から蔦のようなものを出して繋ぎとめるものの、千切れて主人公はその世界の奥底まで突き落とされてしまう。 コーヒーカップを落として割れてしまうシーンは、じつはPV開始直後にも訪れる。割れた後には植物が生まれ、世界を覆い尽くそうとする。その後続くお見舞いのシーンには全く繋がりを感ぜられず、ただ現実的な情景が続く。このギャップには違和感があった。 ここで考えられるのは、主人公の見ている世界は現実の世界と想像の世界/深層心理の世界を行き来していて、そのほとんどが想像の世界を描いた動画作品であるということだ。想像の世界に生きる主人公――この設定に、どこかで見おぼえがあった。 村上春樹が僕の生まれた年に書いた、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”という作品が、それだ。 ”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”との類似点 先述の通り、”himawari”のPVの時間軸がシャッフルされたものであるのと同様、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”の時間軸もシャッフルされている。 ただし、そのシャッフルのされ方が全然違っていて、”himawari”は(恐らく)歌われる詩とことばの響きに合わせて時間軸を移動するのに対し、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”は「ハードボイルド・ワンダーランド」の話の続きが「世界の終り」であるという構成になっている(しかし、章立ての構成自体は交互にお話が語られるため、読者は最後まで読まないとそれぞれのお話の時間軸がつかめない)。

『子どもの気管切開なび』という医療的ケア児・ご家族のためのWebサイトを作りました

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『子どもの気管切開なび』 プレスリリースは一昨日実施。今後もコンテンツ・機能の刷新と研究班の成果発表・取り組みへのサポート依頼などを推進していきたい。 小児の気管切開について、医学的に明確な診断基準やガイドラインが確立されておらず、ガイドラインづくりを早急に進める必要がある。また、作られた治療方針などが必要とする人々に適切なタイミングで届くような情報発信のプラットフォームが欲しかった、というのが事のはじまりだった。 丁度、僕がここに転職してきて暫くしたタイミング(およそ2年前)にこのプロジェクトが開始し、(僕の怠惰もあって…)ずるずると作ってきた結果この時期までかかってしまいましたが、、プロジェクト当初に描いた内容はほぼ総て網羅できたものと思われる。 2年前に企画したときの図 ふりかえってみると、それなりに考えとしては纏まっていると思う。その時は、末期・終末患者の心理状態を研究したキュプラー・ロスの 死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫) をうけて小児医療の研究者が考案した( “こころをつなぐ小児医療”(著:満留明久) )“障害を持つ子どもの親の心理的反応”を根拠に、ステップをイメージした。 第一期:ショック―この世の終わり、崩れ落ちるような感情の反応、感覚脱力感、無力感、よく泣く、どうしようもない気持ち・逃げ出したい衝動 第ニ期:否認・否定―「自分の子がどうして、なぜ?」「そんなはずがない!」doctor shopping、宗教・慈善事業への関心 第三期:悲哀と怒り、不安―怒りっぽくなる(誰にでも、特に医療従事者への攻撃)、子どもが/夫が/自分自身が憎い、自分の責任、子どもに愛着を感じることに躊躇う 第四期:適応―不安と情動の不安定さが薄れ、立場を理解・子どもを受け入れる、世話ができる、子どもと同一化 第五期:再起―子どもの問題に対する責任に対処、中長期的・積極的な受け入れ、両親の相互の支え合い ご存知のとおり、医療的ケア児は、そのケアの内容から幼稚園・保育園の就園のステップや、小学校への就学のステップにおいて教育現場とのすり合わせが上手くいかないことも少なからずある訳で。知的障がいがなく普通学級で問題のない児であっても、特別支援学級や療育につなげられ、行動の自由度が限られていってしまう現

新しいPJTを創ることにした~PatientsLikeMeの小児医療版~

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きっかけは、「小児医療におけるピアサポートって、なんなんだろう?」という問いを持った瞬間。あるとき PatientsLikeMe を見ていて、「同じ様に、自分と同様の疾患を持つ人とのつながりを助けるSNSは数あれど、なかなか現場で使われるような浸透度にはなっていない(少なくとも、自分のいる現場では)」ことに気付いた。 海外・国内における医療向けソーシャルメディアの現状 海外では、PatientsLikeMeが2006年3月に公開されてから数多くのソーシャルメディアが立ち上がっており、がんや生活習慣病など疾患・病態ごとのコミュニティ運営に特化したものも立ち上がってきている。一方、国内では比較的まだ下火で、志あるNPO・NGO、患者会の方々の自助努力によって疾患や地域ごとに広がって来ているものの、欧米のそれほどには一般的なコミュニケーションとはなっていないように見える。 また、患者・家族会については、昨今の情報化についていけていない団体も少なくなく。そもそも医療という現場自体IT化の遅れた現場であるということもあって、患者・家族会も同様に経済面・技術面がハードルとなっており、未だWebを介したコミュニティは不足しているのが現状だ。 目指す世界観は、ちょっとした話のしたい人でも安心して話せる雰囲気 そこで、自分なりに考えたのが「医療施設」という切り口・軸。普通、患者会などは「疾患/症状」で繋がることが一般的だが、それよりも「医療施設」つまり”同じ病院にかかったことのあるひと”との繋がりを第一に考えよう、といい発想を持った。 もし自分が当事者だとしたら、”同じ病気にかかったひとと繋がりたい”というよりは”同じ病院にかかったことのあるひとと繋がりたい”と思うだろう、という洞察があったためだ。 小児総合医療施設で入院する子ども・ご家族には、下記のようなニーズが有るはず。 自分と同じ施設/疾患で療養している/していた人に話を聞いてみたい 医療者からの指摘がほんとうに自分に合っているかどうかを確認したい 自分の気持ちを聴いていてもらいたい 自分の親しい人のための情報やサポートする方法を見付けたい そして、小児総合医療施設のSW・患者会・家族会・支援団体には、下記のようなニーズが有るはずだ。 教えたい 自分の経験を

”ぷしゅ よなよなエールがお世話になります”(著者:井手 直行)

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読んだのは、よなよなエールが好きだから、気分転換したかったから、ここまで有名になるまでのプロセスに興味が沸いたから…というところ。 また、少し読んでみると、いわゆる”ベンチャー企業特有のノリ”がさほど濃く出ている訳でもなく。ネット通販で業績を伸ばしてから、意図的にそうしたノリを取り入れていくプロセスが描かれる。ここに、自分自身少々”お堅い”組織風土にいるのもあって、参考にできるところがありそうな気がした。 知名度・予算・人材など頼れるリソースの無い中で、どうすれば新しい取り組みをスケールさせていけるのか?というのは、常に興味のあるテーマだ。何故なら、小児・周産期医療の医療機関に従事する自分が、そうした事業環境にいるからだ。 そこで、先述の事業環境に適した戦略(戦術?)と思われるランチェスター戦略を引用しながら、これについて学んだ時期を思い出しながら。今回の書評を書いてみることにした。それは、 『“星野リゾートの教科書 サービスと利益 両立の法則”(著:中沢 康彦)』 で書かれた手法を模倣したものだ。 ランチェスターの法則”弱者の戦略” 戦略的には『すぐ勝てる(効果検証が早い)/独自性の生きる/小さな市場セグメンテーション』を選択し、集中的なリソース投下をする。というのが、小さな組織が事業を伸ばすための原則だと理解しているし、自分はそうしている。 ランチェスターの法則を引くと、弱者(≒市場シェア2位以下のすべての企業)下記のとおりの戦略を採るべきである。 局地戦:スキマ市場やニッチ市場に競争の場を特化・セグメンテーション属性を限定し、トップ企業と戦う 一騎打ち:資源を集中し、トップ企業と戦う 接近戦:強者に先んじて、顧客ニーズの把握や顧客へのコミュニケーション強化(販売経路、営業活動など)を図り、戦略の確度(商品のヒット率)を上げる顧客に接近する 一点集中:攻撃目標をひとつに絞り、強者の弱点を重点的に攻める 陽動作戦:従来のパターン以外の展開を測り、強者を出し抜く 戦闘力の方程式は、ランチェスターの第一法則を引くと「武器効率×兵力数」。方や、市場規模の方程式があるとすれば「人数×単価」。 エールビール企業であるヤッホーブルーイングは1996年5月創立の新興企業であり、ビール市場では弱者も弱者。今でこそビール業界全体では

”リクルートの すごい構“創"力”(著者:杉田 浩章)

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リクルートってどんな企業?という問いには、”AISEASの『Search』を習慣的にしない市場セグメントに向けたアナログな事業会社”という印象を持っている。デジタルな分野で存在感を見せたのは、 スタディサプリの創業と indeedの買収、という記憶ぐらい。 読んでいるときは「そういうことがあったんだ」という裏側も見れて、一気に読めた。だが、これを実践に直ぐつなげていかねばならないと思うと、難易度はそれなりに有るものと思う。 一通りふりかえって、自分の仕事に惹き付けて考える。 【ステージ1】「0→1」 世の中の不をアイデアへ リクルートの「不」とは、下記のとおり。 誰もが目をつけていなかったものか 既存の産業構造を変えるほどの大きなものか 収益につながるものか 一点目は新規性、二点目は競争の原理における合理性、三点目は価値を感じるターゲットとの付き合い方、と置き換えようか。 リクルート「らしさ」には、下記の三点が挙げられている 百億円以上の市場規模を占められる事業がどうか ユニークかどうか 志(あるべき社会の姿とのGAPとして、真に解決すべき「不」が存在しているかどうか) これだけの条件が揃わない限り、続かない事業になってしまう、ということだ。 【ステージ2】「1→10」前半 勝ち筋を見つける リボン図の中のぐるぐる図でマネタイズ設計する、その道程を見せる。KPIを模索する際の条件として「環境などの外部要因に左右されず、営業現場の努力が反映されるもの」「2~5日で効果が検証できるもの」という2点を挙げられていたのは、正にその通りだと思う。(しかし、これってIT系ならば当たり前なんじゃないか?とは思う) ゼクシィのKPIの話では、何が価値KPIなのか?を考える文脈をサラッと書いてあってここをもっと深く聴きたいと思った。 初め、資料請求のはがきの戻りをKPIとしていたのを、ブライダルフェアの申し込み数・来場者数をKPIにすることにシフトした話の「それまで」と「それから」が気になった。ゼクシィは、Webという情報接点が広まった今現在もこのKPIを追っているのだろうか?というところが、特に。 なお、リクルート流の”良いKPI”の条件は下記のとおり。 整合性(ロジック

遥かなる時の彼方へ

『遥かなる時の彼方へ』という曲名を知っているだろうか。この曲は、クロノトリガーというTVゲームのエンディングで流れる曲で、フルートの主旋律がとても綺麗な楽曲である。 作曲者は光田康典という方で、当時スクウェアのゲームBGM作曲者の中でも若手で、初のタイトルがこのゲームだった。 ゲームのPR予告に使われたキャッチコピーは「星はかつて夢をみた」。主人公は時空を超える旅の中で、自分たちが棲む星の運命を知ることになり、破滅へと向かう未来を救おうと戦うーーというストーリーのRPGだ。 この作品は、幾つものエンディングが用意されていて、物語の終わらせ方次第で様々な結末を見ることができた(当初は画期的とされたマルチエンディングという仕様だ)。 あるエンディングの最後、スタッフロールで『遥かなる時の彼方へ』の曲が流れ出すとき。主人公とヒロインは、自らが持った風船で宙に浮かび上がって、そのままふたりが風と共に夜空を旅するシーンが流れる。 僕はこのシーンが大好きで、何度もクリアしては何度も同じエンディングを見た。もちろん、そのBGMである『遥かなる時の彼方へ』も、何度も聴いた。夜空の満月の中にふたりが消えていく映像も、漸く恵まれた機会をモノにしようとした若手作曲家が苦しみながらも書いた壮麗な楽曲も、TVゲームだけが毎日の楽しみで真面目な勉強が嫌いだった小学生を夢中にさせた虚構の構築に携わった、一人ひとりの総ての名前が流れるひとときも。 その何もかもが、綺麗だった。 いま、ゲームは大きく変わった。TVゲームは主流ではなくなり、僕らが毎日手に持つ液晶画面の中で遊べるようになった。 思い出補正、と揶揄されるだろうけれど。ゲームの幻想的なストーリーにこころ動かされて、まるでほんとうに物語の中に自分がいるかのようなあのころの没入と感覚と感動は、もう二度と感じることはできないのだろう。 それでも、いまだに曲はしばしば耳にするようにしている。 きっと、どこかで、時を超えて、あのころの自分に出逢える時が来るんじゃないかと、思っているからなのかもしれない。