想い出は、雪になって
何というか―自分の人生の存在意義を、少しは塗りかえられるかな、と思っていた。ぶっちゃけ。でも、知った責任とか見た責任とか繋がりを持った責任とか、そういうのがドミノ倒しの様に続けておとずれて。正直、抜け出せなくなった、というか。そんなところだ。
初めは、興味本位だったんだと、思う。自分の知らない世界が広がっている、ただそれだけで、僕はこの上なくシアワセなのだ。でも、知った先が一寸だけ運悪かったんだよね、たぶん。いや、ラッキーだったのかもしれない。
自分の人生を生きることなく、他人の人生を生きている人は、この国にたくさんいる。依存でなく、ほんとうにその人の支えに成り続けて、生きている人たちが。「普通の人って、どう生きているんだろうね―」重症心身障害児の息子を持って、10年という歳月を奉げた後にその子を亡くした夫婦の詞だ。僕には、想像も付かない。
自分の人生って、なんだろうね。自由って、なんだろうね。自己責任、自業自得、そんな話で片づけられるものなのかね、人のいのちってやつは。
仕事は、すればするほどに、重たい。テーマも、量も、質も。それは「仕事は、できる人のところにあつまる」とかではなく、「仕事は、話を聴いてしまった人のところにあつまる」のだと、最近分かった。
申し訳ないけど、僕が奉仕したいと思うのは、自分自身が満たされているからなのだ。それが絶対条件で、だから仕事だって寄付だってする。でも、そんな気持ちは余裕からしか出てこない。だから、救急医療に従事する医療従事者とは、正反対だと考えている。
そもそも、生きるなんてものは、元来苦しいもので。それを僕らは、寝食・人のつながり・その他で覆い隠しているだけなんじゃないのか。そんな気がしている。だって、こんなにしんどい生活を続けている人が、こんなにいるんだぜ。
誰かが亡くなっても、僕が怠けても、知らない景色は続く。出遭いの先にあったはずの繋がりは、幻のように見えるだけだ。
すべては、想い出になっていくばかり。過ぎ去っていく時間のすべては、僕の人生の限界にすぎない。
想い出は、雪になって 降り積もる。亡くなった 彼のことも、きっと。