Mr.Children”himawari”PVを”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(著・村上春樹)”で紐解く

PVの時間軸は複雑に絡み合い、空間は現実の世界と想像の世界を行き来する


僕の解釈としては、第一にPVの時間軸はチグハグにシャッフルされたものであろう、ということ。そして、『主人公が、入院している彼女をお見舞いに来る』という現実の世界を除いては、総てが想像の世界(深層心理の世界、と言い換えてもいいかもしれない)であろうということだ。

彼女が亡くなってしまう瞬間を表現するメタファ

こと切れる彼女の姿に、主人公が持っていたコーヒーカップを落とした瞬間――その前から不穏な情景だった街の中から嵐がやってきて、他にも患者がいたはずの医療施設の入院病棟から、主人公だけが吹き飛ばされる。

窓を突き破り外へ放り出されてしまう主人公を、倒れた彼女が引きとめようと腕から蔦のようなものを出して繋ぎとめるものの、千切れて主人公はその世界の奥底まで突き落とされてしまう。

コーヒーカップを落として割れてしまうシーンは、じつはPV開始直後にも訪れる。割れた後には植物が生まれ、世界を覆い尽くそうとする。その後続くお見舞いのシーンには全く繋がりを感ぜられず、ただ現実的な情景が続く。このギャップには違和感があった。

ここで考えられるのは、主人公の見ている世界は現実の世界と想像の世界/深層心理の世界を行き来していて、そのほとんどが想像の世界を描いた動画作品であるということだ。想像の世界に生きる主人公――この設定に、どこかで見おぼえがあった。

村上春樹が僕の生まれた年に書いた、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”という作品が、それだ。

”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”との類似点


先述の通り、”himawari”のPVの時間軸がシャッフルされたものであるのと同様、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”の時間軸もシャッフルされている。

ただし、そのシャッフルのされ方が全然違っていて、”himawari”は(恐らく)歌われる詩とことばの響きに合わせて時間軸を移動するのに対し、”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”は「ハードボイルド・ワンダーランド」の話の続きが「世界の終り」であるという構成になっている(しかし、章立ての構成自体は交互にお話が語られるため、読者は最後まで読まないとそれぞれのお話の時間軸がつかめない)。
誰にも雨を止めることはできない。誰も雨を免れることはできない。雨はいつも公正に降り続けるのだ。 
やがてその雨はぼんやりとした色の不透明なカーテンとなって私の意識を覆った。 
眠りがやってきたのだ。 
私はこれで私の失ったものを取り戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身を任せた。
「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公は、最後に表層意識での人生に終わりを告げて、深層意識での人生を歩み出す。第三の意識体の世界へと、旅立つのだ。そして、「世界の終り」の物語がはじまる。
ここは僕自身の世界なんだ。 
壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ。
”世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド”の「世界の終り」とは、主人公の想像の世界(作品では「第三回路」と記されている)であり、現実の世界での自分自身の記憶を表象的な存在として構成する場所として描かれる。

それぞれの存在に込められた抽象的な意味


想い出という名の「角砂糖」
そもそも、ここにある詩の表現とPVの映像についての着想が、この考察のはじまりだった。
主人公の、「君」との想い出は「角砂糖」として頭にも、胸にも残されていた。しかし、涙に暮れる主人公が、哀しみと寂しさに感けて「君」との記憶を追体験しようと、「角砂糖」に刻み込まれたフィルムを再生すると、その分の「角砂糖」は消えてしまう――この表現から、他の存在にも何らかの意味付けを施すことで、PVに込められた表象を整理してみた。

  • 身体に生えた植物のようなもの:(身体的・精神的な)病.
  • 赤い花:生きて欲しい、生きたいと願う気持ち.
  • 窓の向こうの景色(街、嵐など):主人公の表層意識の情景
  • 小人:深層心理としての自我.
  • 兵士、兵士を動かす歯車:心を失った自我.
  • 星:心.星の表面にあるのは表層意識の情景.核は、心の有りよう.
  • ひまわり:(他人である「君」を愛した)心ある自らの自我・「君」の愛そのもの.

どうでしょう。他にも、こういう意味が/意図があるんじゃないだろうか、というのがあれば、ぜひ。

”himawari”のPVのストーリーを「正しい時間軸」で読んでみる

主人公が、入院している彼女をお見舞いに来る。手には、彼女に喜んでもらいたい、生きて欲しいという想いを込めた花束が有る。全体的にトーンが暗いのは、その後の彼らの未来を暗示しているからかもしれない。
健常である自分と比べ、病気で弱り切った「君」の身体。手を繋ぎ、言葉ではなく、お互いの意識の中で幸せだったころの二人を想い出す。
透き通るほど真っ直ぐに 明日へ漕ぎだす君――抱き合い、踊り出す二人はひまわりの色に彩られる。お互いを想い合う、二人の愛。
しかし、「君」は主人公を残して、亡くなってしまう。
「君」との想い出としての「角砂糖」を持ち続けようとする、主人公の自我。
しかし、主人公は深い悲しみの中で、現実の世界から吹き飛ばされてしまう。
こと切れる「君」の最期の意識が、想像の世界へと堕ちていく主人公を繋ぎとめようとする。しかし、悲しみの嵐は主人公を世界の底へと突き落としてしまう。
主人公の悲嘆は深く、二人の想い出さえ見失わせ、捨て去らせてしまうような衝撃として意識にダメージを与えた。

主人公の深層意識は、心を失ってしまっていた。その表象としての兵士が列を乱さずに歩行し、誰かを助けようとする思いやりを、兵士が斧で断ち切ろうとする。
思いを飲み込む美学と 自分を言いくるめて 実際は面倒臭いことから逃げるようにして 邪(よこしま)にただ生きている――まるで、歯車で動く機械の様に。

感情を殺し、ただ座り込んでいたはずの主人公の意識は、それでも「君」の想い出を拾い続ける旅に出ることになる。
「君」の想い出を繰り返し再生して、過去に浸る主人公。しかし、その映像は再生する度に消えてなくなっていってしまう。
ある時、世界のどこかに芽吹いた赤い花は、ひまわりだった。一度は萎びてしまった花は、再び息を吹き返した。
長い旅の終わりに、主人公は暗がりで咲いてるひまわりと出逢う。自分の中に残っていた「君」の意識と再会する。
「君」は、主人公に何かを告げる。自分がいなくなっても、生きて。過去の「君」だけを見ることなく、その存在を忘れずに未来に向かうことを望んだのだろうか。
そして、「君」は消えてしまう。
そこには、「君」を象徴するひまわりだけが残っていた――

誰かを亡くした人のショックと悲嘆、衰弱した心が、愛した人との記憶・想い出から立ち上がり、未来に向かおうとする抒情が描かれているのだと。僕は、思った。

”himawari”の主人公の、それから


「世界の終り」で、「僕」は「夢読み」という仕事に就く。図書館におびただしい数の一角獣の頭骨が収集されていて、その一角獣の頭骨には、古い人々の夢が籠もっている。頭骨に手を当てがって、それを読みとる仕事である。その仕事が完成したらどういうことになるかは語られていないのだが、「僕」はいつしかその意味を知ることとなる。
すべては僕自身なのだった。彼女の瞳からは涙が流れ、気がつくと頭骨の列はあたたかい光を放っていた。 
あらゆるところに光が点在し、そこに彼女の心を感じとることができた。僕はその心を読み、ひとつにまとめることができるのだ。
「私」が「ハードボイルド・ワンダーランド」の図書館で出会い、最後の晩餐を共にした女の子との時間を表象として「世界の終り」に存在する、図書館にいる女の子を救うことを「僕」は決意する。
「僕には僕の責任があるんだ」 と僕は言った。 
「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。 君には悪いと思うよ。 本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果さなくちゃならないんだ。」
「僕」は深層意識の世界(すなわち「世界の終り」)に留まることを決め、図書館の女の子の心を取り戻すために「街」に戻っていく。

”himawari”では、どうだろう。”暗がりで咲いてるひまわり”――主人公は、病に伏した「君」の、悲しい終わりの意識に、未だ囚われているような気がする。
誰も私を助けてはくれなかった。誰にも私を救うことはできないのだ。ちょうど私が誰をも救うことができなかったのと同じように。 
私は声をあげて泣きたかったが、泣くわけにはいかなかった。涙を流すには私はもう年をとりすぎていたし、あまりに多くのことを経験しすぎていた。 
世界には涙を流すことのできない哀しみというのが存在するのだ。それは誰に向っても説明することができないし、たとえ説明できたとしても、誰にも理解してもらうことのできない種類のものなのだ。 
その哀しみはどのような形に変えることもできず、風のない夜の雪のようにただ静かに心に積もっていくだけのものなのだ。
もし続編が有るのなら。「君」を亡くした世界で、”透き通るほど真っ直ぐに 明日へ漕ぎだすような”「君」のように生きたいと願う主人公の、再生の物語であって欲しい。




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