佐久間正英というプロデューサーについて

goodbye world

その昔C言語から始まったプログラム学習で必ず通る"hello world"と言う言葉。
その真逆の言葉を自分の口から公に向けなければならない日が来るとは、思いもしていなかった。(ご本人のブログより)

四人囃子というバンドについて


BOØWY、GLAY、黒夢、JUDY AND MARY、エレファントカシマシ・・・名立たるバンド、グループのプロデューサーとしての仕事が(現在は)代表作として挙げられる彼だけど、元は日本のプログレッシヴ・バンドである四人囃子のベーシストだった。

このバンド、当時のメンバーは平均年齢20歳前後というとても若い人たちにも関わらず、技巧的にも世界観的にも先進的なサウンドを聴かせる早熟なバンドとして一世を風靡(といってもそこまでセールス的には成功したわけじゃない)したグループだ。

四人囃子は、今聴いても、滅茶苦茶巧いし、新しい。

四人囃子に加入以前は「ミスタッチ」というバンドに在籍し、四人囃子でベースを担当した後、作曲家・編曲家・セッションミュージシャンとして活動。 
1978年にプラスチックスに参加(「Ma-CHANG」名義)し、1981年に脱退。この間にP-MODELのプロデュースを担当。1984年、自身の活動拠点としてブイ・エフ・ブイスタジオを設立。 

「佐久間式ピッキング法」とも呼ばれる逆アングル・ピッキングフォームが特徴的。この奏法は、通常のピッキングよりも弦にハード・ヒッティング出来て、更にスラップよりも強い音が出るので、BOØWYの松井恒松、GLAYのJIRO、黒夢の人時などに影響を与えた。しかし元々はギタリストであり、キーボードなどもこなすマルチプレイヤーである。 

プロデューサーとしての佐久間正英と僕


その後、紆余曲折有る中でBOØWYを初めとする若手バンドのプロデュース業が盛んになっていく。特にGLAY、JUDY AND MARYの仕事は時代の追い風もあってセールス的にも成功を収め、他にも様々なグループが彼にオファーをするようになっていった。

1985年に生まれた僕は、彼の作ったサウンドを聴いて育った世代だ。小学校、中学校と上がっていって、いろんなバンドやグループの栄枯盛衰があったとしても、後ろには常に(と言って良いほど)彼の存在があり、そして豊かな響きを聴かせてくれた。

僕自身、彼の存在を知ったのは高校時代だった。当時の僕は、作曲という仕事に憧れ、いわゆる裏方と呼ばれるようなサウンドエンジニアやテクニシャン、プロデューサーといった職業にも興味を持っていた。そのため、CDを購入した後、僕がまず最初に開くのは歌詞カードではなく、このCDを世におくり出す為に関わった人たちの名前が入ったクレジット。それが載っている、一番最後のページだった。

そこに、彼の名前がしばしば見られたことから興味を持ち、リットーミュージックのサウンド&レコーディング・マガジンなぞで彼の仕事内容を細かく知るようになった。

特に憶えているのは、cuneというバンドをプロデュースした時。クローバーという曲があって、その曲のサビがシングルではイマイチ情緒に欠けた和声進行だった。そのため、「もっと良くなるのに」という気持ちで聴いていた。

それが、アルバムになると劇的に変わっていた。借用和音を使い、コードと旋律の音程に緊張感が付与され、ボーカルの旋律に“泣き”が入っていたのだ。そこで、「プロデューサーって凄い!!」と思ったのを憶えている。



僕にとって佐久間サウンドは少年時代そのものだった


のかもしれない。少年時代を振り返ったその時に流れるのは、彼のプロデュースした曲たちだ。そして、そのサウンドには、必ず佐久間さんの存在があった。

それは、やっぱりGLAYかな。佐久間さんのGLAYとの仕事は、「彼女の“Modern…”」から。幾つものミリオンセラーに常に関わっていた佐久間さん。

誰もが知るようになったその曲たちは、バンドでコピーしてもカラオケで歌っても、何時だって変わらない輝きをはなつ、青春だ。
プロデューサーとしての仕事はそろそろ終わりかも知れない。ライブを出来る機会はいつになるか、もう無いのか。会いたい人たちにも会う時間が来る保証などどこにも無い。 
やりたいこと、やり残したことも山積みになってしまうに違いない。 
それでも人生ってまだまだ楽しく面白い。(ご本人のブログより)
僕らの青春を、有難う。


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