2013年について(今年のセルフレビュー)


今年は、オフィスが移転したり、昇進したり、NPOで仕事をし出したりと幾つかの転機があった年でした。
これからも、大きくスタイルの変わる出来事が(恐らく)待っていることと思いますが、いったん今年の区切りということで振り返りをしたいと思います。

この年に公開された、記念すべきジブリ作品たちに乗せて。


“創造的人生の持ち時間は10年”


宮崎駿監督が、『風立ちぬ』作中でイタリア人飛行機設計者のカプローニに発せさせた詞。情景の大草原は、ダンテの『神曲』をモティーフに煉獄を表しているそうだ。

創造的な人生とは―

僕は、新卒一年目からずっとコンサルファームに属している。コンサルティングという仕事は、巷にあふれる書籍から引けば「問題解決」が生業だそうだ。ならば、この世で一番難しい問題とは何か。それは、人間社会の中で構造的な問題を抱えた、幾つかの事象のことではないか。

貧困、自殺、医療、教育・・・様々な分野に、知らず知らずのうちに世代を超えた悲劇の種が撒かれているのが、この国の現実なのだと思う。

そんな訳で、今年は何某かの問題解決に「自分にできることがあるなら」という姿勢で向き合ってきた一年だった。無論、完遂した仕事、中途半端な仕事、いろいろあった。それらは、これからの人生で返していく予定です。皆様、暫しお待ちくださいませ。

そして、そんな今年も終わろうとしている。それでは、自分自身の創造的人生は、何に向かうのだろうか?10年という時間を、どんなテーマの下で費やすべきか?そうした問いを立てて、新年には一度WBSに落とそうと考えている。

それぐらい、人生を大切に生きたいと、最近思うようになったのだ。この2週間ぐらいの出来事の中で。

“生きるために生まれてきたのに”


高畑勲監督作・『かぐや姫の物語』で、かぐや姫がクライマックスで呟く詞。因みに僕は、どちらかというと『風立ちぬ』よりもこちら派です。それぐらい、素晴らしい作品だったから。

この作品のコピーの文章「かぐや姫の罪と罰」―その罪とは、月の世界にいながら穢れた地球の暮らしに憧れを抱いてしまったこと。その罰として彼女は地球に墜とされ、人間として生まれ育ち、人間の汚さを味わう。最後、彼女は「月に帰りたい」と思ってしまう。それは、地球を穢れた世界だということを認めたことに他ならない。羽衣を纏った彼女は、それまで慕ってきた翁や媼を忘れてしまう。

きっと、彼女に与えられた罰とは、地球に墜とされたことだけではないのだろう。それは、地球の人々との記憶を無くしてしまうことだったのではないか。かぐや姫は、月に帰る時にこの台詞を言う。後悔してもしきれない、嘘だらけの自分の人生。取り返せない、捨丸との未来。

そうだよな。人は、生きるために生まれてきたのだもんな。僕は、バカみたいにそんなことを考えていた。

“結局、医師は人格以上の医療はできないんだ”




訳あって最近、小児医療に関する書籍を読み漁っている。その中の一つがこれです。

著者の満留 昭久さんは九州大学の医学部を出られてから福岡大学の医学部で小児科医として仕事をされてきた方です。その仕事の領域は社会福祉にも及び、里親制度の啓発・啓蒙と家庭的養護の推進をテーマとした「子どもの村福岡」を開くに至っています。

そんな著者がこれまで寄稿してきた随筆を書き下ろしの文章を含め出版したのがこの本。そして、この本の中で、とある小児科医が語った詞が、見出しのもの。医師は謙虚であれ、医師にとって最も縁のない詞は「傲慢」である、というメッセージを繰り返し著者は述べておられます。

医師でなくとも、普通に暮らして仕事をしている僕であっても、この詞は胸に残るものでした。この詞の通り、人間はその人の人格以上の仕事はできないのだと、(直観的に)思うのです。


人を大きくする“装置”


そうしたテーゼを前提としても、しかし、人は人格以上の業を成すことがある。何故か。それは、その人が何らかの“装置”を使ったからに他ならない。その“装置”とは、時代であり、組織であり、ビジネスであり、学問であり、芸術だ。

“装置”を動かす仕組みを作ることで、人は人格を超えた営みを手に入れるではないか。そんなことを、最近はつらつらと考えていたりします。

さて。僕の創造的な10年は、次世代のいのちの為に使おうと考えております。そのための“装置”を作り出すことが、直近のto doですね。この辺りのお話は、後ほど。

それでは、良いお年を。

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