それでも夜は明ける(監督:スティーヴ・マックイーン)

週末、新宿で映画を観た。大学時代のサークルで出遭った友人と2人、お互いの間に流れた時間の長さに、「きしょッ」と笑いながら。

僕と彼の出遭いから、既に10年以上が経っていた。

それでも夜は明ける』―この映画は事実に基づくもので、主人公のモデルとなったソロモン・ノーサップ(英語版)による1853年の自伝『Twelve Years a Slave』が原作となっている。

ワシントンD.C.で誘拐され、奴隷として売られた自由黒人ソロモン。プランテーションで12年もの間、家族とはなればなれになって過ごす、苦悩の連続。

劇中、絶え間なく続く暴力と裏切りに、不思議と観客も“慣れて”きてしまっていたのではないか。そう思えるぐらい、映像はリアリティと歴史性に満ちていた。

ふと、人権とは何なのだろう、と思う。今だって、人種差別はある。特にこの国だと、ナショナリズムをオーバーラップさせたそれで何の疑問も躊躇いもなく見知らぬ他人を傷付ける言論をネットで見掛けたりする。故郷を愛する想いを免罪符にしたそれを正当化するような国であってはならないと、僕は思う。

人権は、人が生まれながらにして持つ権利のことだと云う。それは、精神的な“健康”のようなものなのだろう。しかしそれが損なわれたとき、人は耐え難い苦痛を思い知る。

身体的な健康と精神的な“健康”の相違点は、ただ一つ。身体的な健康は、事故や障がい・疾患によって損なわれる。一方、精神的な“健康”は、自分と同じ「権利」しか持たないはずの人間によって、理不尽に、不条理に、社会的に損なわれ奪われるものであるという点だ。

そして、一度失った“健康”を取り戻すことは簡単ではなく、人の精神は、あっけなく不可逆的に変容してしまう。トラウマの語源は「傷」という意味のギリシャ語だというが、その瘡蓋の下にある傷が完全に癒えることは、ない。

そんなことを考えていたら、「現代における人種差別とは、どのようなものか?」という疑問が沸いてきた。本作は歴史の中にある人種差別だ。じゃあ、翻って現代では?と思ったのだ。

すると、『フルートベール駅で』も新宿武蔵野館で上映中との情報を見付けた。これは、行くしかない。知るしかない。誰かの人生を、娯楽としてのみ消費することに、厭きてしまったのだから。

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